太平記 楠木正成 名言 11

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結局、目指す夢への道を険しくしたり、 必要なものは、全てあなたの中にあります。, 新たに必要なものがあれば、 楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。 出自不詳。自称は橘氏後裔。 息子に正行、正時、正儀。. 思考や顕在能力の開発に偏り過ぎているのと同じように。, 思い、夢の実現も、 自分にない能力などを感じることはできても、

少し前述しましたが、江戸時代に『古今軍理問答』では、『保元物語』『平治物語』『平家物語』『甲陽軍鑑』なども論じていますが、それらの主要人物である源義朝・源義経・武田信玄・上杉謙信などを差し置いて、正成を「日本開闢以来の名将」の異名で呼んでいます。, 理由は「個人の将として優れているのは越後の上杉謙信、技術で優れているのは武田信玄としつつも、戦国時代の軍法は小競り合いの類である。小事を知るには良いが、源義経・楠木正成・新田義貞の軍法の後に本当の合戦というのは存在しない」という評価を江戸時代の陽明学者がしていたからでした。, 楠木正成は皇国史観に基づき、「忠臣の鑑」「日本人の鑑」といわれました。皇国忠臣の思想は南朝の北畠親房が記した歴史書「神皇正統記」が元となり、万世一系とする天皇の国家統治が理想とされた考え方です。この書は南朝の北畠親房が書いてあるのも相まって、南朝の正統性を記していました。, この思想は江戸末期に尊王攘夷論として発展していき、明治時代には正式に南朝が正統とされました。それに伴い、江戸時代までは朝敵とされていた楠木正成が、変わって英雄とされていきました。第二次世界大戦の頃には、「皇国史観」として国粋主義として発展していき、帝国主義を支えるイデオロギーと発展していった一面があります。, 楠木正成は非常に戦略に優れ、義にも厚い武将であると同時に、近年商工経済のルートやネットワークを駆使していたこともわかってきています。また建武の親政の時には、記録所の寄人(職員)に抜擢されています。他の官僚の顔ぶれからかなりの実務官僚の手腕があったのではないかと推定されています。また修験道者でもあったという、色々な顔を持つ人物だったといわれています。, 分からないことの多い楠木正成ですが、それだけ歴史の表舞台からは遠い世界に最初はいたために、色々な経験を積むことによって後の「楠木正成」に繋がっていったといえるのではないでしょうか。, 楠木正成の武士としての気概を感じる一言です。数十倍の軍勢に立ち向かう正成の実力があってこそなお際立つ一言といえます。, これは中国の「孫子」という兵法に載っている言葉を引用したといわれています。1332年の赤坂城の戦いにおいて敵を驚かすだけで撤退させることに成功し、言葉通り一戦も交えずに城を取り返したといいます。, 大将とは大きな知恵も小さな知恵も持たなけれなならないのだ。磨き続けないと正しい知恵は出てこないと解いています。この考え方は、正成の戦法の強い武器となったことでしょう。, 楠木正成は後醍醐天皇の夢がきっかけで、取り立てられたといわれています。内容は後醍醐天皇が笠置山でうたた寝ををしている時に、夢の中で大きな木があり、下に官人が位の順に座っていたけれども南側の上座だけが誰も座っていなかったそうです。天皇は誰の席か不思議に思っていると、童子が来て「ここはあなた様の席です。」と言っていなくなってしまったという夢でした。, 目覚めた天皇が夢の意味を考えていると、「木」と「南」を合わせると「楠」となるためにこのあたりに「楠」という武士はいるかと下問すると、河内に橘諸兄の子孫「楠木正成」という武士がいると答えたそうです。天皇はすぐに楠木正成を呼び寄せ、取り立てたという伝説が残っています。, 「太平記」によると自害すると前に、楠木正成は弟の正季に次に生まれ変わるときは何になりたいかと問うと、正季はからからと笑って「7度人間に生まれ変わって朝敵を倒したい」といったといいます。それを聞いた正成は満足げな様子で、「なんとも罪深い邪悪な考えだが私もそう思う。さらばだ、私も同じように生まれ変わり、滅族の本懐を果たそう」と答えて刺し違えたといわれています。, こうして「七生滅賊」という仏教的に罪深い思想に囚われた正成は、後巻で怨霊として再登場して室町幕府を呪い最後は僧侶が唱える「般若心経」で調伏されたという結末となっています。しかし、この話も明治時代には「七生報国」と美談になり、軍国主義に利用されることにも繋がりました。, 楠木正成は儒教的には三徳兼備の聖人であるけれども、仏教的には「七生滅賊」の罪業を願った悪人といわれていました。「太平記」に怨霊として楠木正成が出ています。内容は以下の通りです。, 正成を討った大森盛長は猿楽を嗜む一族でもあり、ある日盛長が猿楽に向かっていると山脇の細道で美女に会いますが、口が裂けて角が生えた怪物に変わりました。この時は抵抗して女は消えましたが、猿楽は中止になりました。, しかし後日猿楽を再開したときに再び化け物が現れ楠木正成と名乗り、朝敵滅賊の野望を果たすために修羅の眷属となり、「貪」「瞋」「癡」の三毒の魔剣を探し求めていると明かしたのです。この後は後醍醐天皇や護良親王らも現れ大きな戦いとなりますが、最後は盛長の縁者の禅僧が「般若心経」により調伏したとされるところで物語は終わっています。, 生まれた年も場所も不明ですが、「日本開闢以来の名将」は生を受けました。生まれた場所は河内国か、駿河国という説が有力です。いつから河内国に住んでいたかははっきり分かりませんが、河内国の観心寺で仏学を学んだといいます。, 北条高時の命令で、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏を撃滅していています。これにより楠木正成が正史に名前が出てくるようになります。これにより正成は、阿弓河荘を与えられました。正成の三氏討伐に六波羅は感嘆をあげ、そして恐れたといい、世間に強烈なインパクトを与えました。, 後醍醐天皇は笠置山にて挙兵し、朝廷対幕府軍の元弘の乱が起こりました。正成は幕府の官人でしたが後醍醐天皇の倒幕に加担しました。正成は笠置山参行したため、幕府は怒って所領の和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収しています。, 笠置山の赤坂城に立てこもった楠木正成軍と、幕府軍が対峙した戦いが起きます。幕府軍が30万騎だったのに対し楠木軍は、500騎だったといわれています。圧倒的な兵力差ですぐ勝負がつくと思われましたが、正成の卓越したゲリラ戦でとにかく耐え抜いています。1か月程の籠城に耐え、同じく陣にいた護良親王と正成は城を捨て逃亡し、半年ほど消息不明となりました。, 半年経った翌年に楠木正成は挙兵し、生きていたことを世に示しました。赤坂城を奇策をもって城を奪いその勢いで河内・和泉を制圧しています。討伐に乗り出した六波羅も奇襲により撃退しました。, 楠木正成は千早城に籠城し、幕府軍を迎え撃ちました。後醍醐天皇もこの時に隠岐から脱出しており、正成が千早城で幕府軍を釘付けにしている間に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼすことに成功しています。その功績もあり、後醍醐天皇が京を凱旋した時には警護を任されました。, 倒幕の功績が認められ、後醍醐天皇より記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護、河内守(国司)に任じられています。その他にも多くの所領を与えられました。正成は建武の新政において後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕とあわせて「三木一草」と併称されて、「朝恩に誇った」とされます。, 建武の新政への武士の不満が募り、足利尊氏が朝廷より離反し鎌倉で挙兵しました。足利軍は当初戦闘有利に進み、京まで攻めてきましたが、楠木正成の活躍により豊島河原合戦に勝利し、足利軍を京から九州に駆逐しています。, 後醍醐天皇の勅によって出陣を命じられて、兵庫に下向しています。その際の道中、息子の正行に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と述べ、桜井の宿から河内へ帰したといいます。これが後に「桜井の別れ」といわれました。「太平記」の名場面の一つとして、国語の教科書にも載っていた戦前教育では有名な場面だったといいます。, 湊川で新田・楠木軍と足利軍が対峙し戦となりました。最初は互角に戦っていたのですが、細川水軍の奇襲により足利軍優勢となり、最後は敗北を悟り、弟の正季と刺し違えて自害し生涯を閉じました。その清廉した人格に、敵である足利尊氏も敬意を払ったといわれています。, 南朝の視点から楠木正成像を見ることができる本です。悪党楠木正成が、六波羅に挑む様子をわかりやすく読める本です。楠木正成を知りたいという人にはまず読んでほしい本です。, 「日本開闘以来の名将」といわれた楠木正成の鮮やかな戦術を、知ることができる本です。兵法に興味がある方は、是非読んでほしい一冊です。楠木正成の「ゲリラ戦法」の数々を知ることができます。, 英雄「楠木正成」はどの様に作られたのか?戦時中に英雄視されていった様子を考察しています。その裏には何の狙いがあったのか、日本人の国民性から切り込んだ一冊です。上級者向きですが、戦時中の日本人の精神を理解するのに役立つ一冊です。, 「悪党」と呼ばれた楠木正成の強さを知ることができます。強く、逞しい楠木正成の人物像をわかりやすく、新しい視点から説明された興味深い動画です。, 天才的戦術の持ち主の楠木正成を、わかりやすく紐解いている作品です。岡田准一さんが一度は演じてみたいという、「楠木正成」の魅力が伝わってきます。歴史ファンは必見です。, 真田広之が主演の大河ドラマ「太平記」は足利尊氏視点の大河ドラマです。主要な人物として楠木正成も登場し、建武の新政までが描かれます。建武の新政のころの歴史を知るためにもおすすめの一作です。, いかがでしたでしょうか。筆者は今回楠木正成を執筆していて、自分が知っていた内容以上に深い人物で、新しい視点が開けた感覚です。執筆するまで、「戦争時代に英雄視されていた」というイメージが先行していて、戦国時代の武将より馴染みが薄い印象を持っていました。, 今回の執筆で知ったことは、「大楠公」は非常に清廉な人格の義に厚い強い武将だったということです。戦国大名とはフィールドが違うために、戦う戦法も「合戦」ではなく「戦争」だなと感じています。とても器用で何でもこなす人物だったということも知って新鮮でした。まだ貴族の血縁が強い時代に、自分の力で出世した武士の走りなのではないかと感じています。この記事を読んで少しでも「楠木正成」に興味を持っていただけたら嬉しく思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。. 楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。, 元弘の乱(1331年 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。, 南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生(けしょう)」(『太平記評判秘伝理尽鈔』、「軍神の化身」の意)、「日本開闢以来の名将」(江島為信『古今軍理問答』)と称された[4]。『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた「不敵」(無敵)の戦術家としての活躍が印象的に描かれるが、それは正成の軍才のごく限定された一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり(『楠木合戦注文』『道平公記』)、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり(楠木流軍学の祖)、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった(『梅松論』『国史大辞典』)。, 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。, 戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価されたことで、対比として主君である後醍醐天皇やその建武政権の政策への低評価に繋がり、同時代への実証的研究を困難にさせた。しかし、2000年前後以降は、主君後醍醐の政策は前後の時代との連続性が見られることが指摘され、『太平記』で創作されたような暗君像は改められる方向にある。正成についても、何か一つの側面に縛られるような人間ではなく、武将・官僚・商人など、多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている。, 建武2年(1335年)8月25日、『法華経』の写経を完了し、奥書に「橘朝臣正成」と自著していることから、遅くともこの時期までには橘氏の後裔を自称していた[原文 1]。, 『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある[5][6]。, 楠木氏は橘氏の後裔とされる[7]。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある[7][8]。『太平記』巻第三には、楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる[7]。, また『観世系図』によれば、観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある[9]。, 得能弘一が楠木氏駿河国出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、筧雅博、新井孝重も楠木氏の出自は駿河国とした[7][10][11][12]。筧雅博はその理由として、以下を挙げている。, 網野善彦は、楠木氏はもともと武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)で、得宗領河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定した[14]。正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝わる[10]。, また、『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍(おし)、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている[15]。, 永仁3年(1295年)、東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした[16]。, 林屋辰三郎は河内楠氏が散所民の長であったとした[17][18]。兵藤裕己はこの説を有力とし、正成の行為も悪党的行為であるとした[18]。, 元徳3年(1331年)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[10]。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある[10][19]。佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた[19]。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした[20]。, 正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはないとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている[21]。, 元亨2年(1322年)、正成は得宗・北条高時の命により、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏を撃滅している[22]。, この一連の状況は『高野春秋編年輯録』に詳しい[22]。渡辺党を討った正成は高野山領を通過して紀伊安田へと向かい、安田荘を攻撃した[12]。安田庄司は湯浅一族であり、当時湯浅氏は高野山との相論に負けて紀伊国阿弖河荘(阿瀬川荘)を没収されており、この正成の攻撃は没収地の差押さえであったとされる[12]。その結果、正成は幕府から得宗領となった阿弖河荘を与えられた[14][22]。, その後、正成は越智氏の討伐へと向かった。越智氏は幕府に根成柿の所領を没収され、さらには北条高時が興じる闘犬の飼料供出まで求められ、憤った越智邦永が自領で六波羅の役人を殺害するに至った[22]。六波羅北方は討手として奉行人斎藤利行、小串範行らを二度にわたって派遣したが、そのゲリラ戦に手痛い敗北を喫していた[23]。そのため、六波羅は正成を起用し、彼は越智氏を討つことに成功した[12]。, 新井孝重は、正成が渡辺党、湯浅氏、越智氏といった反逆武装民を討滅したことは非常に興味深いと述べている[23]。また、一連の軍事行動を否定する積極的な根拠は見いだせず、これらは本当にあったと考えている[22]。新井は、得宗被官であった正成が反逆武装民を討つのは当然の行為であると指摘し、この当時はまだ鎌倉幕府に忠実な「番犬」として畿内ににらみを利かせていたとしている[12]。, 正成による渡辺党、湯浅氏、越智氏の討滅に六波羅は感嘆の声を上げ、そして怖れたといい、世間の人々にもその強烈な印象を与えた[12]。当時、畿内では悪党が幕府への反逆、合戦を繰り返し、その支配に揺らぎが生じていた[12]。幕府は安藤氏の乱で手を焼かされており、合戦の名人である正成が悪党のエネルギーを吸収し、いずれ反逆した場合への不安を抱いたとされる[24]。, その後、正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担するようになった[14]。後醍醐天皇と正成を仲介したのは真言密教僧文観と醍醐寺報恩院道祐とされる[14][25]。ほか、伊賀兼光の関係も指摘されている。, 元徳3年(1331年)2月、後醍醐天皇が道祐に与えた和泉若松荘を正成は所領として得た[14]。しかし、同年4月に倒幕計画が幕府側に知られると、8月に後醍醐天皇は笠置山に逃げ、その地で挙兵した(元弘の乱)。なお、正成はこのとき笠置山に参向している[26]。『増鏡』によると天皇側は前もって正成を頼りにしていたという[25]。正成は得宗被官から一転したため、鎌倉幕府からは「悪党楠兵衛尉」として追及を受けた[14]。同年9月、六波羅探題は正成の所領和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[10]。, 9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城(下赤坂城)にて幕府軍と戦った(赤坂城の戦い)。幕府軍は当初、一日で決戦をつけることができると判断し、すぐさま攻撃を開始した[27]。, だが、正成は寡兵ながらもその攻撃によく耐えた。敵が城に接近すれば弓矢で応戦し、その上城外の塀で奇襲を仕掛けた[27]。敵が堀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落として敵兵を退け、上から大木や大石を投げ落とした[28][29]。これに対し、敵が楯を用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った[30]。正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥った[30]。, 新井孝重は、一土豪に過ぎない正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃を仕掛けたことに注目している[31]。単なる悪党の蜂起であるならばこれほどの大軍勢の投入は有り得ず、正成の尋常ならざる実力の証左であるとしている[31]。正成はかつて幕府に反逆した武士を次々に討伐した合戦の名人であり、鎌倉は明らかに正成を大いなる脅威と認識していたと考えられる[32], しかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、 同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城を奪わせた[14]。鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。, 赤坂城には阿弖河荘の旧主湯浅宗藤(湯浅孫六入道定仏)が幕府によって配置され、その旧領である正成の領地を与えられた[22]。一方、正成は赤坂城の落城後、しばらく行方をくらました。同年末、後醍醐方の護良親王から左衛門尉を与えられた[14]。, 元弘2年/元徳4年(1332年)4月3日[33]、正成は湯浅宗藤の依る赤坂城を襲撃した。正成は赤坂城内に兵糧が少なく、湯浅宗藤が領地の阿弖河荘から人夫5、6百人に兵糧を持ち込ませ、夜陰に乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器を仕込んだ[33]。楠木軍は難なく城内に入ると、俵から武器を取り出して鬨の声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った[33]。これにより、湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏し、正成は赤坂城を奪い返した[14][33]。, 楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。そして、5月17日には摂津の住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣した[33]。京には和泉・河内の両国から早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込む可能性があると知らせたため、洛中は大騒ぎとなった[33]。このため、六波羅探題は隅田・高橋を南北六波羅の軍奉行とし、5月20日に京から5千の軍勢を派遣した[33]。, 5月21日、六波羅軍は渡部橋まで進んだが、渡部橋の南側に楠木軍は300騎しかおらず、兵らは我先にと川を渡ろうとした[33]。だがこれは正成の策略で、前日に主力軍は住吉、天王寺付近に隠して 2,000余騎の軍勢を三手に分けており、わざと敵に橋を渡らせてから流れの深みに追い込み、一気に雌雄を決すという作戦であった[33]。正成は敵の陣形がばらけたところで三方から攻め立て、大混乱に陥った敵は大勢が討たれ、残りは命からがら京へと逃げ帰った[33]。, その後、六波羅は隅田、高橋の敗北を見て、武勇で誉れ高い宇都宮高綱(のち公綱)に正成討伐を命じ、7月19日に宇都宮は京を出発した[33]。宇都宮は天王寺に布陣したが、その軍勢は600-700騎ほどであった[33]。, 和田孫三郎は正成に戦うことを進言したが、正成は宇都宮が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評してその武勇を恐れ、「良将戦わずして勝つ」と述べた[33]。その後、夜にあちこちの山で松明を燃やし、宇都宮がいつ攻めてくるのかわからないような不安に陥らせ、三日三晩これを行った[33]。, 7月27日夜半、宇都宮がついに兵を京へ引くと、翌朝には正成が天王寺に入れ替わる形で入った[33]。正成は天王寺に進出してからその勢いをさらに増したが、庶民に迷惑をかけてはならぬと部下には命じており、すべての将兵に礼を以て接したため、その勢いはさらに強大となった[33]。, 8月3日、楠木正成は住吉神社に馬3頭を献上し、翌日には天王寺に太刀と鎧一領、馬を奉納した[34]。, やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した[35]。これに対し、正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。, 元弘3年/正慶2年(1333年)2月以降、正成は赤坂城や金剛山中腹に築いた千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した(千早城の戦い)[36]。正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、 大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かい、同年閏2月に後醍醐天皇は隠岐を脱出した[36]。, 幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心ら反幕勢力が挙兵した。5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わった[37]。, そして、5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は正成の奮戦に起因するものであった。正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった義貞が幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである[38][39]。, 正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日に兵庫で出迎え、道中警護についた[40]。天皇が兵庫を出発して以降、正成はその行列の先陣を務め、その後陣には畿内の軍勢7千騎を引き連れていた[40]。, 後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護、河内守(国司)となる[14]。また、そのほかにも河内新開荘、土佐安芸荘、出羽屋代荘、常陸瓜連など多くの所領を与えられた[14]。正成は建武の新政において後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕とあわせて「三木一草」と併称され[14]、「朝恩に誇った」とされる[41]。, だが、建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したとされることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。, 建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反した。追討の命を受けた義貞は12月に箱根・竹ノ下の戦いで尊氏に敗れて京へと戻り、これを追う尊氏は京へ迫った。, だが、翌年1月13日に北畠顕家が近江坂本に到着すると、正成は義貞や顕家と合流し、連携を取って反撃を仕掛けた。28日、正成は義貞、顕家、名和長年、千種忠顕らと共に京都へ総攻撃を仕掛ける[注釈 4]。この合戦は30日まで続いた[42]。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。, 合戦は正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れたが、2月11日に正成は義貞、顕家とともに摂津豊島河原(大阪府池田市・箕面市)の戦い(豊島河原合戦)で足利方を京から九州へ駆逐する。, 『梅松論』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、正成が新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある[43]。その根拠として、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい[43]。さらに義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったことは尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である[43]、というものであった。, 正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず、事実かどうかは不明である[44]。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とし洞察力に長けた正成は純粋に武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた[45]。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかったといわれる[44]。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる[44]。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方に徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている[44]。, この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり[46]、にべもなく却下されてしまった[43]。, 義貞は、播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、延元元年/建武3年(1336年)4月に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して態勢を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進し、その軍勢は10万を越していた。一方、義貞の軍勢はその数を日ごとに減らし、5月13日に兵庫(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)に到着した時には2万騎を切っていた[47]。, 絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、5月16日には正成は京から兵庫に下向した[48]。道中、正成は息子の正行に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と述べ、桜井の宿から河内へ帰した[48]。これが有名な楠木父子が訣別する桜井の別れであるが、史実であるかどうかは不明である。, 24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。正成は義貞と合流したのち会見し、義貞に朝廷における議論の経過を説明した[48][49]。, 『太平記』によると、その夜、義貞と正成は酌み交わし、それぞれの胸の内を吐露した[48]。義貞は先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、「尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と内情を発露した[49]。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げたため、その期待から尊氏討伐における天皇方総大将という過重な重荷を担わされた。そのため、ずっと常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にせざるを得ず、箱根竹下での敗北、播磨攻めへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた[50]。, 正成はこの義貞の心中の吐露に対して、「他者の謗りなど気にせず、退くべき時は退くべきであるのが良将の成すべきことである。北条高時を滅ぼし、尊氏を九州に追いやったのは義貞の武徳によるものだから、誰も侮るものはいない」といい、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた[50]。正成の説得で義貞の顔色は良くなり、夜を通しての彼らの物語に数杯の酒が興を添えた、と『太平記』は語っている[48]。, しかし、正成は周囲の悪評や恥にばかり固執して勝敗を度外視した一戦を挑もうとする義貞の頑迷さに、同情したが同時に落胆もしたのではないか、と峰岸純夫は分析している[51]。いずれにせよ、正成にとっては義貞と酌み交わした夜が最後の夜となった。, 25日の辰刻(午前8時頃)、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで湊川で対峙した(湊川の戦い)。, 山本隆志によれば、『梅松論』などから判断する限り、実際のこの戦いはそこまで大きな兵力差があった訳ではなく、細川定禅が率いる水軍の揺動と、それに乗った義貞の失策、その機をうまく突いて新田軍と楠木軍を分断させた足利兄弟の戦術的勝利という面が大きいという[52]。, 戦いに敗北した正成は、弟の楠木正季らと共に自害した。この際に、21世紀の現代まで伝わる「七生報国」という言葉を遺している。, 湊川で自害した正成の首は足利方に回収され、六条河原に梟首された[53]。だが、正成の首を見た人々は、延元元年/建武3年(1336年)初頭にも偽の首が掲げられたこともあって、その首が本物か疑ったという[53]。その後、尊氏は残された家族を気遣い、正成の首を故郷である河内に送り返した[53]。, 息子の正行(後世「小楠公」と称される)を筆頭に、正時、正儀らも正成と同じく南朝方として戦い、正行と正時は四條畷の戦いで激戦の末に戦死している。正儀は南朝の参議に登りつめ、(橘氏出身の自称は怪しいとはいえ)約400年ぶりの橘氏公卿となっている。孫の正勝は南北朝合一(明徳の和約)後も北朝に降らず、応永の乱で反幕府側として参戦し、その時の傷が元で死亡している。伝説では、正勝は「虚無」という普化宗の高僧となり、虚無僧や尺八を広めたとされる。また、彼らの子孫も後南朝に属して、北朝を擁する室町幕府と戦った。, 南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。だが、永禄2年(1559年)11月20日、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなった[原文 2]。ただし、この時点では「先祖である朝敵・正成の非を子孫が深く悔いたから」許されたという形式になっており、正成に非があるとする汚名の返上にまでは至らなかった[原文 2]。, 楠木氏嫡流と言われた伊勢楠木氏は、伊勢国の金場(亀山市関町金場)や楠城を根城とする北勢四十八家楠氏として土豪になり、

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